メジャーリーグベースボール(Major League Baseball, MLB)は、アメリカ合衆国及びカナダの30球団により編成される、北アメリカで最上位に位置するプロ野球リーグであり、北アメリカ4大プロスポーツリーグの1つである[1]。厳密に言うならば、1903年に発足した、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営をしている。日本では一般的に「メジャーリーグ」「大リーグ」と呼ばれる。「大リーグ」の呼称は、メジャーリーグの別名「ビッグリーグ(Big League)」の訳語である。
メジャーリーグベースボール(以下、MLB)は、ナショナルリーグとアメリカンリーグの2リーグからなり、カナダに本拠地を置く1チームを含む全30球団から構成されている。各チームはリーグごとに東地区、中地区、西地区に所属する。アメリカ合衆国外からの参加は過去にモントリオール・エクスポスとトロント・ブルージェイズの2チームが参加していたが、2005年にエクスポスがワシントンD.C.に本拠を移転したため、国外チームは現在ブルージェイズの1チームのみ。
試合形式は、レギュラーシーズンとポストシーズンで構成され、最終的に各リーグの優勝チームがワールドシリーズと呼ばれる優勝決定戦を行いワールドチャンピオンを決定する。レギュラーシーズンは4月初旬から9月下旬にかけて各チームが162試合を行い地区優勝を争う。10月初旬からポストシーズンがトーナメント形式で行われる。トーナメントでは各段階ごとにディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、ワールドシリーズと冠される。
[編集] 「メジャーリーグ」の定義
アメリカ合衆国内のプロ野球リーグは、MLBと、MLBの傘下協定をしているマイナーリーグベースボール、またこれらに所属しないプロ野球リーグ(これらは独立リーグと呼ばれている)が過去現在に渡りいくつも存在している。1969年に、アメリカプロ野球100周年を機にMLB機構の指定により『野球記録特別委員会』が設置され、そこで過去消滅したリーグを含め下記6つのプロ野球リーグを「メジャーリーグ」として認める、という決定がなされた。
それ以外の野球リーグでプロとして活動した経歴を持つ選手の記録については、現在この裁定に基づき、どこからどこまでをメジャーリーグ記録とするかといった分類が行われている。ただしこの裁定には一部研究者が、下記のリーグについてもメジャーリーグに含むべきだとの異論を唱えている。
「野球の歴史」も参照
[編集] MLBの発展
アメリカ合衆国において、野球は南北戦争と時期を同じくして各地に普及し、1860年代前半には報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が登場しはじめていたとされる。プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定され、翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドストッキングスは、プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、地方各都市を巡業してその名を馳せた。レッドストッキングスの成功をうけ、あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生、1871年には最初のプロ野球リーグ、ナショナル・アソシエーションが創設された。リーグ運営は5年で破綻したが、その欠点を補う形で翌1876年にナショナルリーグが発足。このリーグが最初のメジャーリーグとされている[4]。
1882年にはアメリカン・アソシエーションが創設され、1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグ優勝チーム同士の対戦が行われた。1884年にユニオン・アソシエーションが創設されたが、1年限りで解散し、1890年にプレイヤーズ・リーグが創設されたが、1年限りで解散。1891年にはアメリカン・アソシエーションが解散し、1リーグ制にもどる。
12球団あったナショナルリーグは1900年から8球団へ統合・削減し、ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から球団がなくなる。一方でウエスタンリーグというマイナーリーグが1900年にアメリカンリーグへと改称し、ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減でメジャー球団がなくなった都市へ進出。翌1901年にアメリカンリーグは自らを「メジャーリーグ」と宣言、ナショナルリーグが1903年にこれを容認し[5]、この年から両リーグ勝者によるワールドシリーズが行われることになる。
[編集] デッドボール時代 - ベーブ・ルースの登場
ベーブ・ルースが本塁打を量産する1920年代以前をデッドボール時代と言う。当時はボールは反発性がないため飛距離が出ず、スピットボールが認められ、球場が広く投手優位だった。打者はバントや盗塁などで得点を重ねた[6]。
1914年にメジャーデビューしたベーブ・ルースは1919年にメジャー新記録となる29本塁打を記録[7]。そのころメジャーリーグでは高反発のボールを使用したり、スピットボールが禁止され、球場の外野フェンスを近づけ、本塁打が出やすいようになった[8]。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、開催こそ継続されたものの選手の出征が相次ぎ、1918年にはレギュラーシーズンが短縮された。1919年、メジャー史上最悪の不祥事であるブラックソックス事件が起き、メジャーリーグは社会的信用を失うことに[9]。1920年ルースが54本塁打を放ち、自身の記録をさらに更新し[7]、1試合当たりの得点も上昇。この打撃戦をファンは支持し観客動員は増加[10]。1927年に記録した60本塁打は34年間メジャー記録だった[7]。
[編集] 世界恐慌・第二次世界大戦
1930年代は世界恐慌により、1930年に1000万人を上回った観客動員は1933年には600万人まで減少したが、景気回復と共に観客動員は再び増加。1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、国内では開催中止論も広まったものの、当時のルーズベルト大統領の意向もあって戦時中も開催は継続された。しかし、選手の出征が相次いだことで各球団とも深刻な選手不足に陥り、1945年のMLBオールスターゲームは中止となった。
[編集] 「カラーライン」の打破、球団拡張
19世紀にはメジャーリーグで黒人選手がいたが、20世紀に入ってからは規則はなかったものの黒人はプレイできず、肌の黒くないヒスパニック系やインディアンはプレイできた[11]。1946年にブルックリン・ドジャースがジャッキー・ロビンソンとメジャー契約を結び、1947年にロビンソンはメジャーデビュー、この年に制定された新人王を受賞。ロビンソンの活躍によりメジャーリーグは黒人選手を受け入れることとなる。
1953年にボストン・ブレーブスは本拠地をミルウォーキーへ移転し、観客動員が28万人から182万人へ増加。以後、本拠地の移転が起きることに。1958年にはニューヨークを本拠地としていたドジャースは本拠地をロサンゼルスへ、ジャイアンツはサンフランシスコへ移転。ドジャースのオーナーであるウォルター・オマリーはニューヨークのファンから「世界三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてオマリー」と非難された[12]。また、ニューヨークでは球団を取り戻す機運が高まり、球団拡張の契機となった[12]。
1961年にロサンゼルス・エンゼルスとワシントン・セネターズ(現テキサス・レンジャーズ)がアメリカンリーグに加盟。1962年にヒューストン・コルト45's(現ヒューストン・アストロズ)とニューヨーク・メッツがナショナルリーグに加盟。1969年 モントリオール・エクスポズとサンディエゴ・パドレスがナショナルリーグに、シアトル・パイロッツ(現ミルウォーキー・ブルワーズ)とカンザスシティ・ロイヤルズがアメリカンリーグに加盟。
[編集] 参加チーム
[編集] アメリカンリーグ
[編集] ナショナルリーグ
ファンは自分の出身地や住んでいる場所の地元チームを応援するのが通例となっている。同じニューヨーク市を本拠地とするヤンキースとメッツの試合はサッカーで言われるところのダービーマッチとなっていて、両チームの本拠地球場間が地下鉄で結ばれているためサブウェイ・シリーズといわれる。
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